■戦闘機無用論■. f: k- o9 C. G% l0 s4 d7 d
海軍戦闘機を語る上で切っても切り離せないものが「戦闘機無用論」である。そして0 {& a' V D( V g Z5 R: R
それを主唱したのが当時航空本部長でワシントン及びロンドンの軍縮条約による艦艇 q2 ]2 {& D/ A0 r
の数の劣勢を飛行機(攻撃機)で補おうとした山本五十六中将と航空本部教育部長の
$ o! a0 y& D3 y大西滝治郎大佐の後盾のあった戦闘機搭乗員出身の源田実少佐だったのである(いわ9 r/ ~9 t3 D/ p" v
ゆる山本-大西-源田ラインである)。大西滝治郎大佐は戦艦無用論(航空主兵主義た
& r6 d8 Y3 n- \" H$ _; U" Mだし戦闘機でなく攻撃機偏重主義)を主唱している。さらに戦闘機無用論と密接な関
9 {# r, C) l* c) b0 a0 \1 S係のある援護戦闘機無用論者でもあった。6 x2 f1 |1 \, }5 O2 X% p
戦闘機無用論とは第1に「目標(攻撃機)の速度が速くなったので弾が当らないので+ J2 H: u1 t. }5 q5 M$ u
戦闘機での攻撃は効果がうすい」である(しかしこれは射撃角度制限のある吹流し標
5 |' I! ?' S# _3 N3 Y, g8 ~/ L的を前提にしていた)。第2に96陸攻が木更津航空隊で実用試験中で近くの館山航空
: Q# ]( D! u0 p: x1 A& W3 H- h隊の90式艦戦との模擬攻撃演習が行われたが時代のちがう飛行機の組合せと特殊な態+ W) c. S; w) [
勢で一時的に戦闘機が追いつけなかったことなどを考慮しないで「攻撃機に追いつけ
3 ~ i1 k, L2 C. Yない戦闘機など役に立たない」という理論である(数に限りのある空母艦載機は能力
/ V& ^6 i7 |# ?! w8 Z不足の戦闘機よりも敵艦に被害を与えられる攻撃機を増やし軍縮条約で艦艇数不足を( {( ^, p/ U5 Y ?+ A
補うというもの)。この戦闘機無用論者は山本五十六中将(無用論賛成採用者)・大
- l: y0 w. p6 F Q西滝治郎大佐(無用論賛成採用者)・三和義勇少佐(横空戦術教官で無用論の支持者)6 P3 R7 I) Q; W1 G4 E
・源田実少佐(海軍大学生)・小園安名大尉(横空分隊長)で横須賀航空隊は戦闘機
5 w. v D0 ]$ h h6 f無用論の発信地となった。がこの当時の海軍航空界における実力権力No.1である山本
6 d/ ^, E: e9 r0 P3 E+ }% G五十六中将とNo.2である大西滝治郎大佐が賛成しなければ昭和11年度の兵力配備にお" }* j) r5 ?' p
いて実際に戦闘機数が三分の一削減され戦闘機搭乗員(多数の下士官搭乗員が艦上爆
, L% i) x" ?2 N) y' E撃機や練習航空隊にまわされ士官も同様であった)およびその養成員数その他戦闘機6 ?6 C# k0 N! ~, H w7 n! q
に関する一切が削減されるようなことはなかったのである。昭和8年夏の横空で行わ& U! Y. w: {" b# G
れた研究会で雷撃機分隊長の日高実保大尉が「実戦場において発射前の被害を最小限) p1 K% I, K2 U, \, h9 V
にとどめ多少の遠距離からでも命中率を上げるための対策として発射法(高高度高速' t) C, n( s w% i
発射法及びそれに適応する魚雷の発明や改善)や雷撃用測距儀や射点測定器等の兵器) c! ]7 P$ Y: g
の発明や実戦的な訓練法等を抜本的に研究する必要がある」と。そして戦闘機側から
% D& n7 n6 a7 c2 b) e柴田武雄大尉が「戦闘機の威力を発揮するには被害を最小限にして有効な命中弾を得( @ J! |2 {$ }8 m
る適当な射距離から射撃する必要がある。しかし射距離が多少延長し命中効率が低下
& e) `4 Q! J% k9 t2 |する。そこで命中効力(命中効率+弾薬の威力)を向上させるため優秀な照準器その
; l C, t t3 j% I) }2 U3 c2 J他高性能の兵器弾薬等の発明ならびに実戦的な訓練を実施する必要がある」と述べた。
: L3 o: u3 q# R* }4 L7 fすると山本五十六中将(海軍航空本部技術部長)は「今若い士官達から射距離を延ば2 F* M" W0 x( o U
すという意見が出たが言語道断である。帝国海軍のこんにちあるは肉迫必中の伝統精
% R& C7 e1 l, N# O+ `6 P神にある。今後1mたりとも射距離を延ばすことは絶対に許さん」と言ったという。こ
% [& F8 n6 G3 d& a: Dのように長い時間をかけて作り上げ受け継がれてきた伝統には尊重すべき点も少なく
1 h7 Z$ e& G d6 k7 g6 Vなかったが中には時代にそぐわなくなったものもたくさんあった。それに気づかない
) }8 v9 Z; r/ F4 M2 yか気づいても改めようとしない頑固さや融通の無さは進歩や発展のさまたげ意外の何, O3 B9 v0 C, v1 X
者でもない。精神的なたとえとごく物理的な論理を混同しあることを口にすると「そ
+ r7 [8 ^3 V9 x2 t# ^" `- nれでも日本人か」などと返答に困るような抽象的な言葉で切り捨てようとする傾向は
1 Z* Y& d" i# K5 u! h+ a海軍陸軍に限らず一般社会(現在でも)でもしばしば見られるのだが。それでも大西& }$ g7 A' X( ^7 O
は戦闘機無用論によって激減した戦闘機搭乗員に危惧を抱き昭和11年末に新鋭の96艦! ^- X, V* [7 q9 ]9 A
戦が大村空に配備される時攻撃機出身の池上ニ男少佐を大村空の戦闘機飛行隊長に任
8 i3 h2 A+ n+ v) Kじこの新鋭機をもってしてもなお戦闘機が無用かどうか研究するように命じた。そし
6 u. `* E* Q% L7 |; kて昭和12年4月に佐世保鎮守府で攻撃側が鹿屋基地の96陸攻と防御側が大村空の96艦* a. r( Y: r8 P. p) [2 j" @
戦での防空演習でが行われたが当時は総合的な防空システムの不備により攻撃側の完
! K7 x8 t4 F- N/ l _ u B全な奇襲攻撃となり戦闘機の有効性を発揮できなかった。この結果によりさらに戦闘2 ] d6 u' N! c2 |3 l) I
機無用論の勢いが大きくなってしまった。もとより戦闘機無用論は大多数の戦闘機搭
0 ^( I( r0 h& A9 r9 I# p2 x乗員達にとって我慢ならないもので戦闘機以外の海軍軍人の中にも疑問視する声はあっ D; }% T* p- G& X% M. }; g3 b
たが海軍航空界における実力権力No.1である山本五十六中将とNo.2である大西滝治郎9 g( S3 P* {) U2 v& `7 x: \
大佐を否定することは海軍の席が無くなる事をも意味するので既に実施された戦闘機/ i+ f4 o+ g, {% A
削減の方針を覆そうとする者はいないと思われた。しかし第2連合航空隊司令部の先
) j# m) G3 X/ o( ^% L( w( u+ h任参謀の小田原俊彦少佐(初の夜間発着艦や方向探知機による盲目降着法の実験に参9 d+ w8 M' k: |& a& c# A7 d
加したのをはじめ航空廠飛行実験部時代の戦闘機用急降下爆弾照準機の考案など多彩
6 a9 H) ~7 ~$ L9 @な経歴の持ち主)は「戦闘機は最高速度を少し犠牲にしても格闘戦に強いのがいい」
: C5 v$ T }$ zとする横須賀航空隊の意見に対し航空廠側の意見として「飛行性能こそもっとも重視
) i+ u5 ~3 Q/ A+ }8 n# Iすべきであり格闘性能を重視するあまり最高速度を犠牲にすることは絶対に避けるべ' k4 Z) R5 ^* Y8 W5 X/ I6 D
し」と横空と対立する意見を主張したことである(この頃はまだ横空とは同調してい
/ ?- U3 c5 w( r& J3 U8 `" aなかった)。さらに「旋回半径が小さいのが空戦に有利ならば速度の遅い初歩練習機3 I" @2 b3 b0 g [) v$ Q- \2 S
が空戦に最強という結論になる」と。そしてこの戦闘機無用論に立ち向かったのが後
3 |3 K V9 I q' v }) y盾のない柴田武雄少佐であった。柴田は「高速で射撃制約条件の少ない曳航標的の開
! ~$ q3 T% a3 w( P% G3 M発(2機でV字状の曳航索で標的の吹流しを引っぱる方法で弾痕調査が困難なほど多数
r8 j6 n- i2 r" L. G) w0 Kの命中弾を標的の吹流しに撃ち込み物証として実験報告と共に横空に送られたが素直
) Z5 \, b/ k9 F) q/ h0 q# ?3 p6 u; Zに納得しなかった)」「戦闘機搭載機銃の全弾無故障実験及び改良」「旋転戦法の開$ z) w( h* h8 j: r. v# l2 m, V
発」「改正・空中戦闘教範草案」「海軍演習審査基準に対する改正意見具申」「戦闘
: y: `+ Q; H1 I3 ], b. k7 l9 j- ^機の航続距離を伸ばすための落下タンク装備の強調」「艦隊決戦時における戦闘機用* A7 t5 H! e: v; y j
法」の論文を提出したが海軍上層部は黙殺した。しかし柴田は負けなかった。「高速
* s% V$ v" P% V: j" g垂下標的(曳航は1機で曳航される標的が曳航機の後下方すなわち垂直面である角度
" [8 v" z) b' @7 U: v- A u/ eを保って曳航される標的)の開発(空母加賀艦長稲垣生起大佐の強いバックアップに
) c: w _4 U% B7 H% [; vよる)」に成功するのだった。そしてこの高速垂下標的の優秀さと柴田が主張した戦
; F0 o4 p; t2 y3 B# W闘機による射撃の有効性が実証されたのは昭和12年5月に行われた連合艦隊航空戦技2 r6 y4 A5 d9 Y9 i! H# ]7 @
であった(この時柴田は空母加賀の戦闘機隊長)。加賀戦闘機隊が使った標的は他艦
e1 x; h! R" i. O# P3 Z" rで使われた普通の吹流し標的に比べてスピードは25ノットも速く表面積は約四分の一
" Q2 R% | @6 s8 Vだったが発表された標的命中弾数は加賀が一位だった。しかも1機当りの命中弾数は
Q+ ^* L4 m# L7 u0 G, E) Uニ位になった他部隊の約10倍で標的の表面積が約四分の一だったことから単位面積当
0 B# s; V. h" pりに直すとじつに40倍になるという驚異的な結果となった。柴田はこの成果をたずさ- B! J9 ?7 \2 T) _8 k2 p# t: h
え連合艦隊旗艦「長門」の後甲板上で開かれた戦技研究会に稲垣艦長と共に出席した。
* H; }- g1 }6 A# d. ~8 lこれには連合艦隊司令長官・海軍省・航空本部・軍令部などから出席している中で柴
H- p# r% I! K+ K& c田は戦闘機無用論の根本的な誤りを説き戦闘機の有効性を戦技での射撃結果を示しな
4 t: G+ _. w9 `$ k! B' wがら述べたのであった。このあと稲垣艦長が柴田の意見を全面的支持し戦闘機無用論
M- t' `; V( Y* f" uの再検討を促したが海軍上層部の反応は依然として鈍かった。しかしそれから3ヶ月
2 A& ^! j7 H. u* E( H( ]3 r後の日中戦争で実戦の容赦ない現実が戦闘機無用論を霧散させ柴田の主張が正しいこ
) }* g$ \/ a2 ?. j* r- s: uとが実証されたのだ。かつて佐世保鎮守府管下の防空演習で成果をあげた鹿屋基地
: Z& a8 u0 P! Q* a$ R$ [の96陸攻隊の渡洋爆撃も敵戦闘機の激しい邀撃で可動機数は半分に落ち多数の戦死者
5 x" _% u/ j6 ?2 T3 t; U Eを出した。さらに空母「加賀」の96艦攻/89艦攻/94艦爆の混成部隊も大きな犠牲を出' [/ t. ^6 O: p2 _0 `
した。これは90式艦戦の航続力不足から戦闘機の護衛が無かったからであった。そし
: ?. l2 H6 X& {) [* oて89艦攻隊の中でただ1機敵弾及び敵戦闘機に応戦する為に発射された自機の機銃弾5 ^& E* e, M* s. _
でボロボロになりながら帰還した田中正臣中尉から次々に敵戦闘機の餌食となって撃: M: z- x% i2 V. u0 X k6 n
墜された艦攻隊の悲壮な様子を聞かされた柴田はあれほど戦闘機の重要性を力説した
8 N- Q: t r, lのに真剣に取り上げず逆に軽視したことがこういう結果を呼んだのだと深い悲しみと
" O q3 ?% T2 D% n5 k. P Kどこにもぶつけられない憤りを覚えたのだった。戦闘機無用論のもたらしたあまりに
; C( v! {) m$ w( R! \も高価な教訓は全海軍に強い衝撃を与え戦闘機の必要性はもはや疑う余地がなくなっ
9 f, x) Y8 M6 k3 Gたどころか一足飛びにその強化が最大の急務となった。艦攻/艦爆などに転科させた1 \. w& |- b( F3 L
搭乗員(この中には日中戦争でのトップエースの1人でもある田中国義兵曹も含まれ
3 A; h; I* D8 ]& P$ B/ R- Rていた)だけでは足りず逆にこれらの機種から戦闘機に転科させるなどの処置が至急1 ]; x$ x' O8 G1 H' L# @3 L
とられた。さらに戦闘機の数や性能不足はもっと深刻であった。90式艦戦では敵のボー) s% T3 Y/ _0 H+ j W0 O
イングやカーチス・ホークに太刀打ちできないし航続力も短いから攻撃隊の援護も思7 }6 U% p- U& ^
うにまかせないし旋転戦法も生かしようがなく搭乗員はもっと高性能の戦闘機を望ん
* }3 S. v% n$ u+ d- i0 u6 f+ c' C, Iだ。彼らの切実な要求を代表して柴田は海軍省や航空本部などに押しが利く稲垣艦長 B4 V% J |$ B* G
に頼み新鋭の96艦戦を配備するように電報を打ってもらった。手痛い戦訓のショック
0 _- y0 A3 @% {" e8 G( j$ v' B5 aを受けた後だけにまだ数も少なく脚が弱いので着艦に不適当とされ空母にはまだ使用
) O* }7 h% Q3 h" }5 g2 fされてなかったが着艦して問題なければやってもいいとの返事がすぐにもたらされた。7 @7 J7 t( k( x# y9 q% t
艦長の指示で柴田と先任分隊長の五十嵐周生大尉が大村空へ行き各種の飛行を試し母+ j+ g- h& y6 }4 P* O; ^6 @) P8 ?
艦の加賀に向かい無事着艦し「着艦適当ナリト認ム」と中央宛に電報が打たれ早急に
7 P9 Q: i/ A; h$ {' o Q配備が進められた。そして敵戦闘機に対し96艦戦の強さをまざまざと見せ展開された1 e6 c! t4 a$ u3 B: z5 L$ ^
航空撃滅戦の主役を務めることとなり戦闘機無用論は完全に消滅した。この96艦戦
2 R% u" w' A+ T7 q) B+ O# F5 F(9試単戦)は7試艦戦の失敗から海軍の要求仕様から艦上戦闘機から単座戦闘機とし( c( A$ N8 |+ P! L) v
艦上機特有の制限を除外したことが7試艦戦の失敗を克服し成功の要因となった。し1 I# X3 b) y! ~5 a; f/ w8 _
かしこの成功が横空の格闘戦至上主義に拍車がかかり設計者を苦しめるのであった。2 b3 I; U A, l x. ?
このような中で12試艦上戦闘機の計画がスタートしたがその要求は過酷だった(この% w2 Z+ P. J+ J
頃無用論は消滅していたが零戦開発時の計画要求やその基礎となった「航空機種及び
h v z* C. {" x& ^4 i- ~2 D$ z性能標準」が作成された頃は無用論は生きていたのでその影響を多分に受けていた)。
8 G1 ?$ e7 q, l: `0 aそこで堀越技師が速度・格闘性・航続力を同時に満たすのは困難なのでその優先順位
9 O4 O' p/ V. q( a' ?6 nについての質問に、戦闘機での実戦経験のないにもかかわらず戦闘機無用論を提唱し
2 z9 I5 ]. d, T) M7 pた横須賀航空隊戦闘機隊長の源田少佐(実戦では役に立たない曲芸飛行を得意として* a. A9 ^$ q( i8 o! i- Z6 U
いた)が「空戦性能を第一としそのため速力や航続力が多少減ったとしてもやむをえ5 w* y6 i3 z$ i4 _& p" d; ~
ない」に対し四面楚歌の中で戦闘機無用論に反論した実戦経験豊かな航空廠飛行実験1 ?3 K0 l9 M. i1 `2 j$ W- [& R
部の柴田少佐は「敵戦闘機による我が攻撃機の被害は予想以上に大きい。これを援護
/ f3 `6 r! e+ E/ z% Yするには双発の複座あるいは多座戦闘機では航続性能では要求が満たされるかもしれ
_8 N# ~0 z. [. ~# m0 \% vないが(12空案)空戦性能で敵の単座戦闘機にかなわないからどうしても単座戦闘機
5 k/ t. ~! H: Z! r" o5 Oでなければならない。したがって大航続距離は絶対欠かす事はできない。速度につい
( w1 ?2 a) G5 j% Q& @' [ても逃げる敵機をつかまえて格闘戦に引込むには1ノットでも早い方が良く速度も不1 Z2 ^* L: C/ M: j' p/ _
可欠の要素だ。いかに技量優秀、攻撃精神旺盛な操縦者といえどもその飛行機に与え
g8 A/ s% M" n/ D$ Jられた性能以上にはどうにもならない速度や航続力、とくに航続力を優先し空戦性能1 i e' t) m2 \, D. a- T: \3 s
は訓練によって劣勢をカバーできる程度の強さでよろしい」と。この柴田少佐の発言
% X8 k' R9 {+ _# L9 i9 F: lの裏付けとしては、彼が海軍の軍事的な勉強以外に自発的にやってきた航空工学の研, ?+ m5 G: u/ l$ S% j- s! d
究でありもう1つは横空分隊長時代から空母「加賀」戦闘機隊長時代にかけて完成し* w4 i0 i$ ^4 h& J
部下を育成してきた「旋転戦法」であった。この旋転戦法を身につけていれば少々の) ? \/ U/ _" [& s6 Z8 A
重量差あるいは翼面荷重の差など問題ではないという実績によるものであった。この6 C- [' Y. M$ U, Z3 h. D
柴田少佐の論理的な意見に対し源田少佐の感情論がぶつかったがこの場の空気を感じ
1 X; O/ ^8 N* p0 Z9 Z8 ]取った民間の設計者たちが一段と真剣になってより良いものができるだろうと発言す
\; t! n, X+ b! Q0 j7 M4 |べき地位の人たちが沈黙を守り(客観的に見れば柴田理論が正しいのだが大西/山本8 s5 G+ Z: E7 u, O/ t2 t
の後盾のある源田理論を否定できなかった為とも言われている)結論がでないまま終
( m/ d( t2 N1 @) j/ j. [, rり設計陣がすべて抱える事となった。柴田は空戦性能を翼面荷重の大小のみで論ずる
9 o q+ z V- i9 A& J4 c3 d, Z3 B4 Cことに疑問を持っていた。そこで理論的に解明しようとした。彼は日中戦争で実戦を/ ^' R9 Y7 c( y4 s
経験して「翼面荷重が小さければ空戦に強い」という伝説がもはや通用しないことを
Y0 ~ n! C+ p( _3 ^8 f- R& T強く確信した。そして得意の数学を生かして「戦闘機の空戦性能算出式」を導き出し0 I7 }2 n' d8 i
た。これを元に各国の戦闘機のデータを入力し空戦性能の比較が一目で分かるように
! h8 @& E, R$ G1 Dした空戦性能比較表にした。これによって外国戦闘機との比較では予想通り日本の戦
/ O, k9 U0 M& n! L3 K闘機の空戦性能が強すぎることがはっきりした。これによって設計者達が空戦性能の4 i5 ^8 c% c& I6 |
維持・強化にとらわれる事なく速力や航続力など飛行機本来の性能向上により多くの
7 l4 [3 q5 ?( w9 U; e+ q4 y+ ?8 y) d努力を費やす余裕を与えるだろうと期待した。そんな折りに教育部長大西大佐主催" U0 @* x* Q' e: }" K
の12試艦戦研究会が航空本部で開かれることになりこの空戦性能比較表を黒板にはっ\r$ \, h1 A" T% X, B, T
て説明しようとした時に大西が「そんな飛行実験部的な研究など机上の空論にすぎん。/ H5 M1 _2 y$ {; T6 F8 z
聞く必要はないから止めたまえ」といったという。大西は以前柴田に対し「戦闘機無( w, N5 ~, p# D& v
用論に反対のようだが僕は戦闘機などいらないよ」と自信ありげにいったという。結' W+ |/ Z3 R8 g6 B2 A* O
局空戦重視か速度/航続力重視かの結論は出ないまま設計陣の苦心の末に零戦が誕生
# B- ^+ s0 {4 p3 M: y; m F) @( sした。試作時に空技廠で行われた96艦戦との空戦比較研究で旋回半径は大きくとも旋) s- n. P' ]& W3 O7 a7 z: R
回秒時が短ければ問題なく余剰馬力があれば96艦戦を格闘戦で抑え得る事が分かり零
9 Z' G) w4 x) k. L O$ }戦操縦参考書には「対96艦戦の空中戦訓連では急上昇と急降下を多用して相手の頭を/ B( W- }2 B5 R4 @ B6 a
抑えるように機動す」とある(のちに米国が零戦を入手して分析されてからはこれが
' |9 Y" a; R- s8 t4 u0 t行われるようになった)。しかし現場の96艦戦に馴れた搭乗員に受け入れられずにし' |; ` L8 H7 u7 [
ばらく横空の第一格納庫の片隅で埃をかぶっていた。この現場との温度差が分かるエ
: e7 B/ |' h G" d0 U( }+ Rピソードとして零戦取扱講習会がある。これは昭和15年10月高雄航空隊に戦闘機隊が7 p7 l$ M8 Y- I z1 P8 z9 [* R; V
設置される数カ月前に横空で零戦取扱講習会が行われたという。これは母艦、航空隊
0 z7 M! c. _- g: H' b: zの中から選抜された古い搭乗員ばかりなので約1週間で自由に操縦出来るようになり
9 J; M& U" b% b) R2 D" N& v. p講習が終了間近に96艦戦と零戦の単機空戦が各組に分れて同位戦・優位戦・劣位戦が w P7 P! U8 G, u6 Z; I
行われたが、96艦戦に零戦はまったく歯が立たなかった。しかし12機対12機の編隊空4 ?$ G( c& h- [# x) E
戦になると96艦戦は零戦に追い込まれるようになったが。しかしこれが実戦なら零戦
, I0 b) g, z( k隊が優位に立つ前に96艦戦の機銃弾の餌食になっただろうと講習に参加した搭乗員す
. Q: x7 m: i8 M% ~7 a7 }べてが感じたという。空戦終了後96艦戦と零戦で決闘をやれと言われたたらどちらを; a# K# e1 f+ c5 @2 g; F
選ぶかとの飛行隊長の問いにすべての搭乗員が96艦戦と答えたという。それほど96艦
. S0 E. `+ F( z戦は格闘戦に強かったのである。そんな搭乗員に対し飛行隊長は「固定脚、しかも小$ k, F9 {. T& e, f
型で7.7ミリを2挺という貧弱な武装、航続力に乏しい96艦戦は格闘戦だけが強くても$ ~) M/ V" l4 F! b! L/ o7 J, P1 H
総合戦力では大型、高馬力、大武装の世界の先進国の単座戦闘機に対抗する事はでき
. T5 S: _; O. L& g( Kない。この意味から言うと零戦は96艦戦を単機空戦で倒す為に開発されたものでなく
, h1 ?& C9 ` `6 _5 \. h8 M4 z( sこれから先世界列強の戦闘機を相手に征空戦闘機として戦い、勝利する為に生まれた
# \ V0 N. U% F2 z) N3 v2 wのである。しっかり精進してもらいたい」と諭したと言う。戦闘機無用論は消滅はし% i6 x+ t; {. P, N" I
たが海軍航空界における実力権力No.1である山本五十六中将とNo.2である大西滝治郎
1 W/ _6 ?5 J! L% ]1 K1 V大佐の後盾のある源田の格闘戦至上主義が戦闘機無用論に変わって海軍の主流(世界
3 `6 Q: q, o" e1 K* a! I( Sの主流から外れて)になり源田は重大な航空作戦を指導していった(源田は「柴田の
% s& j* S0 {' C言うことは全部間違っている。たとえ正しくともオレの気にくわなねえ奴の言うこと
" y0 z( H6 d s0 j5 iなど絶対に聞くもんか」といっていたという)。そして戦闘機無用論実施の弊害によ
; v2 t) U1 u5 a( gるロスを最期まで取り戻せなかった。戦闘機搭乗員の育成には時間がかかる為に零戦
Q' u# I7 O) b0 E" T/ Pが世に出た時は既に決定的な搭乗員不足となっていた。それでも太平洋戦争初期は日
2 e) { f" E( U5 C5 h中戦争を経験したベテランがいて何とか対応できたがミッドウェイ以降は練度の低い# g' B# p2 B6 k8 Z
搭乗員が大半となり敗戦へ向かうのだった。一度国が定めた事はそれが間違っている
/ V; W6 e7 g$ G `' Eと分かってもなかなか方針変更されない。そしてその被害はボディブローのように後
3 ~! \8 q7 I+ _" M% H- Aになって押し寄せて来るのである(ゆとり教育のように)。そして一番の被害者は最4 f8 n9 b! e9 ~) m' i
前線で命のやりとりをする搭乗員であった。これらの事を考慮しなければ海軍戦闘機1 p8 q9 w. j l$ @1 I g0 P6 a
は語れないのである。このように官側が出した無理な要求を一歩も譲ることなく民間! o" [6 n/ z: c5 {3 C% Z2 |; J8 S
に押し付け設計側の血のにじむような努力を考えようとせずに良いものができたとい- ^4 N2 q- @' D
う事が前例となってそれ以後民間の設計者を苦しませるのだった。これをゼロ・シン
8 A0 ~; q1 X$ C2 f3 R+ Q8 @3 E8 hドローム(零戦症候群)と言いたい(今後に繰り返さない為にも)。しかし現在でも I! M- Y6 a# V0 B
繰り返されあらゆる業種の下請業社を苦しめている。 |